文集「読書のよろこび」第43号
〜平成19年度読書感想文コンクール入賞作品<3>〜
( )内は、第53回青少年読書感想文全道コンクール特別賞受賞作品
2007年11月23日発行
※順次、作品を載せていきます。
小学校高学年の部 ともしび賞
ふみ出そうよ。大きな一歩を…。
                                  市渡小6年 工藤 ひかる
 私には夢中になるものが見つからない。この野口さんかも一緒だった。

 野口さんは日本人の父とエジプト人の母の間に生まれた子ども。ハーフで顔立ちがはっきりとしているためいじめられた経験が幾度もあったそうだ。転勤の多い父の都合上何度も住まいを変え、その度に学校も変え、、幼い子どもにとっては厳しすぎる環境の変化。両親の離婚。好きになれない勉強。ひどい成績(オール2)。落ちこぼれ。停学。「野口なんかと付き合っていればろくなことはない」という先生の忠告で、はなれていったクラスメイト。孤独。私たちが想像もつかないようなつらい過去を持っている野口さん。

 しかし、私が一番驚いたことは過去のつらいことを言い訳にしてふさぎこむのでなく、とっても前向きだということ。そして、若いのに自分の未来を自分で切り開こうとしていることだった。一冊の本との出会いが彼を山登りの道へと向け、七大陸を制覇する中で仲間たちから認められていく。そして登山家が残していったゴミを通して環境問題に関心を持ち、そこから嫌いだった勉強を自分から熱心にするようになる。

 私は何をやっているのだろう。勉強はまあまあできるほうだ。友だちづきあいも楽しく、これといって問題はない。家族も仲良く平和な日々を過している。でも、私自身はどうだろう?この野口さんのように生き生きしているだろうか。一生懸命自分の輝ける場所を探しているだろうか。

 「私ってちっぽけな人間。」この本に出会ってかんじたことだ。変化を好まず、だれにも怒られないように過ごし、目立たないように生きてきた。それでいいと思っていた。でも、夢中になれることを見つけ目標に向かってがんばっている人たちを見るとうらやましかった。「私もなにかやりた。」と思うのだが、もう一歩ふみだせない。そのあとのつらいことや苦しいことを先に想像してしまい、あとずさりしてしまうためだ。自分のからをやぶりたい。野口さんの冒険心がほしい。

 野口さんが始めた山そうじ。先の見えない計画に不安はあったと思うが、今では「ごみ拾いにきたけど、山にごみがないぞ。」とごみがないことを怒られるまでに。野口さんには「だれがなんと言おうとも自分はやるんだ」という強い気持ちと、一歩ふみだす勇気がある。

 私はアナウンサーになりたいと考えている。総合の学習で職業調べをしたときに本物のアナウンサーさんにアナウンサーさんをするために必要なことは何かとたずねた。すると、「色々なことを経験してどう思うか。どう感じたかを大切にするといいよ。」と言われたことがある。いい言葉だと思った。そして、この本との出会い。今の私なら何かできるかも、今の私ならがんばれる気がする。
 「私、思い切ってふみだそう。」

 野口さんに負けない大きな一歩を。
小学校中学年の部 ともしび賞
「ピトゥスの動物園」を読んで
                                  上磯小4年 佐々木 萌絵
 わたしは、この本の題名をはじめて見た時「ピトゥス」というのは、人の名前だとは思いませんでした。どこかの町の動物園の話なんだと思っていました。でも、最初のページに、「ピトゥスのために、動物園を作ろうよ!」と書いてあるのを見て、(この本は本当はすごい物語なんだ)と気づきました。そして少しドキドキしながら読み始めたことを、今でもはっきりおぼえています。

 六人組の仲間の中で、最年少のピトゥスは人なつっこくて、みんなにかわいがられているし七才の男の子です。町じゅうの人気者で、いつもにこにこしているピトゥスが、重い難病にかかってしまったと知って、わたしはとても悲しくなりました。そして、この本の終わりがいったいどうなってしまうんだろう。(死んじゃったらどうしよう。)と思いながら、私は最後のページをそっと開いて見てしまいました。するとそこには、すごく楽しそうな動物園の絵がかかれていました。「ピトゥスの動物園」という文字、ピエロや笑っている子ども、風せんなどが見えて、わたしはなぜかほっとしてしまいました。ピトゥスの病気がなおるような気がしたからです。

 動物園を作るために、みんな一生けん命がんばりました。特に、動物を集める「動物班」は、すごく大変で、苦労の連続でした。でも最後には、若者や大人も力をかしてくれるようになり、町じゅうの人が、ピトゥスを救おうと心を一つにして協力してくれました。はじめは、自分一人では何もできなかったとしても、勇気を出して行動してみたら、小さな力がたくさん集まって、大きな力になて進んでいきます。開園の日、町じゅうの人が動物園につめかけたのは、一つのことをやりとげた喜びと、うれしさがこみ上げてきたからだと思います。わたしも、自分が仲間になったような、幸せな気持ちになりました。そして何よりもうれしかったのは、ピトゥスの病気がなおり、元気になったことです。やさしい気持ちや人を思いやる心が、仲間や友達、そして、まわりの人たちを幸せにしたのだと思います。

 わたしはこの本を読んで、「心を一つに」という言葉を思い出しました。これは、わたしが三年生の時から続けている吹奏楽部の活動の中で、よく言われている言葉です。吹奏楽は、いろんな楽器の音が集まって、一つの曲が完成します。みんなが同じ目標に向かって、全員が同じ気持ちでいなければ、まわりの人達に感動をあたえることはできないということです。動物園を作るというお話とは少しちがうけど、どんなことでも仲間を信じていっしょうにがんばっていくことは、とてもすてきなことだと、わたしはピトゥスや仲間たちに教えてもらいました。

 「ピトゥスの動物園」この本は、わたしの大切な宝物の一冊になりました。
小学校低学年の部 ともしび賞
まほうの手
                                  久根別小2年 西田 まりや
  私は、夏休みの前に図書室で、「さっちゃんのまほうのて」の本をかりました。

  さっちゃんの手が、まほうをつかって、何ができるのかなあと、わたしは、わくわくしながら読んでみました。

  そしたら、さっちゃんは、右手のゆびがありませんでした。ゆびがないから、さっちゃんは、ようちえんで、「お母さんごっこ」であそぶとき、お母さんになれませんでした。さっちゃんは、友だちからなかまはずれにされました。さっちゃんは、ゆびがないから、本とうのお母さんになれないんじゃないかと、はだかのままかがみの前に立って、じぶんのすがたを見て、かなしくなりました。

 わたしは、右手のゆびがないだけで、みんながさっちゃんをいじめなくてもいいのにと思いました。さっちゃんも、わたしも、うでも、耳も、足も、あたまもあります。わたしは、さっちゃんが、できないことをかわりにしてあげたりすれば、みんなでなかよくできるのに、と思いました。

 さっちゃんは、お母さんに、どうしてみんなみたいにゆびがないの?とききました。さっちゃんのお母さんは、おなかの中でけがをしてしまったの、といってました。

 わたしのともだちのみっちゃんも、ゆびがありません。

 みっちゃんは、
 「おなかがすいて、ママのおなかの中で、ゆびをたべてしまったの。」
っていいました。

 みっちゃんは、おしごとでパソコンもできて、かわいい男の子のママです。友だちもたくさんいます。何でもできます。

 さっちゃんの手は、おとうさんにふしぎな力をあげるまほうの手。みっちゃんの手は、何でもできるまほうの手。

 まほうの手さん、わたしにつよいこころを教えてくれて、ありがとう。さっちゃん、わたしも、さっちゃんの友だちになるよ。
中学校の部 毎日新聞社賞
「レネット金色の林檎」を読んで
                                  知内中2年 山本 愛結
 表紙に書かれたレネットという題名と、金色の林檎の絵。レネットという言葉の意味が気になった私は、表紙裏を見てみました。そこには、こう書かれていました。
 「チェルノブイリ原発事故の前日に生まれた徳光海歌。十二歳で死んだ兄・海飛、一身に息子の死を背おって生きる父、父を責める母。その徳光家に原発被災者の少年セリョージャがやってくる。
 一家におきる小波。
 不器用な家族の悲しみを北海道と大地がうけとめて、やがて家族の絆へとかえていく。けがれなき林檎への祈りとともに―。」

 どうして、被曝したセリョージャを家に迎えることになったとき、海歌はいやがったのだろう。両親が、仲良く会話する日を待ち望んでいたはずなのに、セリョージャのことを楽しそうに話す両親を見て、海歌が不快だったのはどうしてだろう。私は不思議に思っていました。でも、きっとそれは、セリョージャが家に来ると、父も母もセリョージャのことばかり考えて、海歌のことをあまり相手にしてくれなくなるからなのだと、私は思いました。海飛が死んで、生きている海歌よりも、死んでしまった海飛を愛し続ける母、もし、私が海歌だったとしても、海歌の中の意地の悪い「もうひとりのわたし」のようになってしまうと思います。でも、それは仕方がないと思います。なぜなら、海歌だって辛かったからです。なのに、海歌は誰にも相手にされなくても、一人でそんな生活に耐えていました。だから、私は、むしろそんな海歌がすごいと思います。

 海歌は、セリョージャのことを無視したり、いやがったりしていました。それなのに、どうして海歌は、セリョージャの具合が悪くなったらどうしようなどと、心配したりしたのだろう。私は考えました。海歌は、セリョージャを海飛のようにかわいがる父と母にかわいがられるセリョージャのことがいやで、無視をしたりしたのだと思います。でも、セリョージャは無視をされても、いつも海歌に「ミカーチャ」と呼んだり、海歌のことを「ミカーチャ、マジェラーシ」と海歌のことを、やさしいと言っていました。きっとセリョージャは、海歌の本心を全て知っていたのです。だから海歌は、セリョージャのことが、本当は好きだったのです。海歌は、セリョージャのことが本当は好きだったけど、父と母に愛されるセリョージャに、悔しいという気持ちがあったのだと思います。だから海歌は、いつもセリョージャに対して無愛想だったり、セリョージャに「ミカーチャ」とやさしく何度も呼ばれても、答えることさえ出来なかったのだと思います。

 海歌が九年間ずっとずっと祈ってきたこと。それは、セリョージャが生きていてくれること。そして、父からセリョージャが生きているということを聞いた時、私も本当にうれしかったです。きっとその時が、九年間ばらばらになっていた家族の絆が結ばれた瞬間だと思います。この長い九年間m、父も母も海歌も本当に辛かったと思います。そして、9年前の夏、セリョージャが来たから、今の家族があるのだと思います。セリョージャが来て、一番変わったのは、やっぱり海歌だと思います。あの夏、海歌は兄の死を、悲しむことさえ出来なくなっていました。でも、セリョージャが来て、海歌は、意地の悪い海歌から、やさしい心を持った海歌へ、変わっていったのです。

  あの夏、海歌が余市においていったレネットの種。いつか、汚染された大地がもとどうりになって、金色の大きな林檎を実らせてくれることを、私も祈りたいと思います。

 この本の作者の名木田さんのあとがきに、「人間が起こしたこともまた人間によって救われるのだ」という言葉が書かれていました。私はその通りだと思います。原発被災者のセリョージャの里親になるというこの物語のように、どんな時でも、どんな場合でも、人間は助け合って生きていかなければいけないということを、この本を読んで改めて実感しました。

 私は、正直に言うと、チェルノブイリ原発事故についてはよくわかりません。でも、この物語の中に、チェルノブイリ原発事故から二十年が経ち、被曝者たちもだんだん忘れさられようとしていること、そして、日本はがんばって被曝の恐ろしさを伝えなくてはいけないという、名木田さんの思いが書かれていました。だから、私は、これからもっとチェルノブイリ原発事故のことを知り、そしてそのことを忘れず、毎日を過ごしていきたいと思います。そして、セリョージャのような、チェルノブイリ原発事故の被災者の人達には、これからも強くたくましく生きていってほしいと思います。私も、海歌のように優しく、セリョージャのように強く生きていきたいです。

中学校の部 ともしび賞
「車輪の下」を読んで
                                  森中2年 山田 詩音
 「昔の人は自分の教養のために学問をやったが、今の人は人に見せるために学問をやっている」論語にはこんな言葉が書かれている。これを聞いた時、まるで自分の隠していた自分が見透かされた気がしてハッとした。全くその通りだからだ。私は何でも周りに見せるためにやっている。「すごい」と言ってもらうと嬉しいからだ。

 一度味わった優越感は、まるで中毒のように決してその感覚を簡単には忘れさせない。本当に自分の教養のためだけに学んでいる人から見れば、私のような考えの者はただの空しく可哀相な人間なのだろう。他人の評価が自分の価値となり、自分で自分を見ようなんて思わない。この本の主人公ハンスもまた、そんな一人だった。

 素晴らしい学問の才能を持っていた為、ハンスは日々苦しんでいた。多くの人は才能を欲する。才能を持つこと自体に損は無いし、それを上手く活かすことで幸せが掴めるかもしれないんだからだ。では、なぜハンスは苦しんだ?

 まだ少年のハンスの小さな心には、常に大きな期待がのしかかっていた。結果を出す度に大きくなっていく期待。どれほどハンスの小さな心は苦しみ、潰れそうになったことだろう。

 それでも彼は、ひたすら勉強に打ち込んだ。周囲の期待に応える為に。よく頭痛はあるものの、好成績で神学校に無事合格。しかし、そこでもまた、大きな期待が小さなハンスの心にのしかかる。やっと親友が出来たところでも、「期待」という名の大きな車輪は、全てを踏みにじっていった。ハンスはもう限界だった。精神が病んでしまい、その時ばかりは忘れてしまった。今まで自分が耐えた過酷な勉強。やっとこの大きな車輪から逃れられるのなら、今までの苦労なんて関係ない。彼は神学校を中退した。

 神学校を中退したものの、彼は初めて友情を知り、反抗というものも知った。ハンスの心は確かに豊かになっていた。

 だが世間の目にはハンスの心が豊かになったことなど、少したりとも分からない。誰も「ハンス」という一人の人間には興味が無いからだ。彼はもう「町の名誉」などではない。ただの脱落者なのだ。もう誰も彼を見ない。人間なんて悲しいものだ。褒めそやして、持ち上げるだけ持ち上げて、その価値が変わった途端に、非情にも平気で手を離す。ただでさえ落ちこんでいるのに、励まそうともしなければ、声を掛けることさえしない。ただ隣に居てくれるだけで良いのに。素晴らしい才能と引き換えに、普通の人として普通の幸せを手に入れられたらと、どんなに彼は願っただろう。

 果たして才能を見出されることは、当人にとって幸せなのだろうか。華々しく輝き、人を上から見下ろすことは幸せだと言えるのだろうか。ハンスの苦悩を見ていると、幸せって何だろう?と考えさせられる。ハンスにとって本当に必要だったのは、秀才だとか、町の名誉だとか、「ハンスの才能」に対してちやほやする人などではなく、一人の人間としてハンスのことをしっかりと見て、どんな時でも側で支えてくれる人だと思う。どんなに勉強ができると言っても、やはり子供は子供な訳で、様々な事に興味を持つだろうし、様々なことを楽しむべきだ。「とにかく勉強」という毎日を送り、周囲から期待されて、どこに幸せがあったのだろう。確かに、勉強することは知らないことを学ぶ楽しさ、結果を出すことで自信がつく喜び、教養として確実に残り次につながるなど、良いことは沢山ある。

 では、幸せとは一体どんなものなのか。逆境の時、いかに歯をくいしばって頑張れるか。自分のせいで迷惑をかけた時、素直に心から謝れるか。誰かが悲しんでいる時、一緒に悲しんであげられるか。誰かが困っている時、素通りせず、何か出来ることを一緒に考えてあげられるか。それらが出来る人が「幸せな人」なのだと私は思う。お金は持ってるし、見た目も良い。でも人の為に悲しんだり出来ない人は、例え本人が幸せだと感じていようと、物凄く可哀相な人だとしか私は思えない。なぜなら、その人に集ってくるのはその人のお金と見た目に対して魅力を感じている人で、その人自身に魅力を感じていないからだ。中身が無い人には中身の無い人しか集まってこない。

 結局、勉強ばかりやっていたハンスは、「どん底」というものを知らなかったため、「幸せな人」にはなれなかった。どん底からどうやってはい上がるか、どの教科書にも載っていない。決して彼が悪い訳ではない。彼は神学校を中退した時にはもう既に、車輪に踏み潰されていたのだろう。そしてまた、ヘッセも車輪に踏み潰された一人。重要なのは、踏み潰された後、あなたの側に誰がいるかだ。

リンク
文集「読書のよろこび」第43号
平成19年度読書感想文コンクール入賞作品<1>
平成19年度読書感想文コンクール入賞作品<2>
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